マーク・ザッカーバーグとは?

マーク・ザッカーバーグについて


現代人にとって欠かせないツールの1つにスマホがあります。そしてそのスマホを使ったSNSは現代人にとって必須ツールとなっています。メールより利便性が高く、速さも考えるとSNSは忙しい現代人にとって理にかなったツールとなっております。
そのSNSにもいくつかの種類があります。LINE、インスタグラムなどが有名なSNSです。他にも新しいサービスが出てきて、SNSも競争をしているような状態です。
そして隆盛を究めているSNSの先駆けと言えるのが“FACE BOOK”です。このサービスは当時画期的で繋がりが薄いと思われた現代人にとって大変有効なサービスです。そして、そのFACEBOOKを立ち上げたのが当時大学生であったマーク・ザッカーバーグでした。現在は世界的に有名な企業家となっています。
そんなマーク・ザッカーバーグの生い立ちや経営手腕などをまとめてみました。

マーク・ザッカーバーグの生い立ち

天才少年からエリート高校生へと

マーク・ザッカーバーグは1984年5月14日ニューヨークにユダヤ系アメリカ人として生まれます。幼少時より天才の一面を見せてゲームプログラムを作り友達と遊んでいたと言います。そして、その才能に目をつけた両親はザッカーバーグにコンピュータープログラミングの家庭教師を付ける程の熱の入れようでした。
その後、アーズーリー高校に入るも、その高校ではザッカーバーグの可能性を発揮するには、退屈過ぎたとしてエリート名門進学高校フィリップス・エクスター・アカデミーに入学します。
そこで彼の才能は徐々に開花していきます。ザッカーバーグが開発した音楽プレイヤーはその完成の高さに企業も注目して、オファーを出します。その中にはマイクロソフト社も含まれていましたが、正式な契約には至っていませんでした。
またコンピューターだけでなく、フェンシングではキャプテンを務め、更に数学はもちろんギリシア語など外国でも抜群の成績を収めていました。それだけに留まらず地理・子分とあらゆる方面で天才的な才能を見せていましたが、友人関係は内気な性格ゆえに少なかったそうです。

ハーバード大学での失敗と成功


高校卒業後はハーバード大学に入学します。このエリート大学でも彼の才能は進化していきます。まず手始めに“コースマッチ”というプロジェクトを開発します。同じ授業を受講している生徒のコミュニケーションツールとして活用されました。その後、彼は女性の容姿をランク付けする“フェイスマッシュ”というサービスを開発します。このサービスは多くの問題を含んでいました。
女性を容姿だけで優劣を評価した事でハーバードの女性陣から無視されるという状態になった上に、大学のシステムから無断で女性の写真を無断で使った事で多大な被害をもたらしたとして大学側に呼び出される事態となりました。また、このシステムは4時間後には閉鎖される事にもなりました。その事で彼に下さられた処分は6ヵ月の保護観察でした。
そして、この事がきっかけとなり新たなシステムの構築に挑むのでした。“フェイスマッシュ”のシステムを応用した“The Face Book”を立ち上げます。これが現在の“Face Book”の前身となります。
The Face Bookはハーバード大学内の限定のネットワークであったにも関わらず、多くの登録メンバーを抱えるまでの大きなシステムとなり、他のコロンビア大学などもこのシステムを利用したいと申し込みが殺到します。そして、その声に応えるようにシステムを開放すると、多くの利用者を獲得します。

学内ネットワークから社会的ネットワークへ

The Face Bookの勢いは止まらず、全米の大学に留まらず高校生までに広がるようになりました。そして、在学中にThe Face Bookから“Face book”と名前を変えて本格的なSNSサイトを立ち上げた後に、その1年後には大学を中退します。
しかし好事魔が多しという言葉があるように、Face Bookは順調なスタートを切ったように思えたのですが、ウィンクルボス兄弟が手掛けた“ハーバードコネクション”がFace book“と類似しているとして、アイデアの盗用として訴えられます。そして、友人であり共同創業者であるアルド・サべリンからも訴えられるなどトラブルが続きますが、自分の子供の様なFace bookを存続させるために数十億ドルの損失を生みます。しかし、その事でFace bookは注目を集める結果となります。
トラブルはありましたが、Face bookはその後も順調に業績を伸ばし世界的に有名な成功者とザッカーバーグはなります。そして、2012年には株式公開(8兆2000億という記録を残す)、長年付き合っていたプリシア・チャンと結婚しました。
現在SNSは多くのライバル達がひしめき合った状態ですが、Face bookの登録者は多いです。そして、現在ザッカーバーグは買収や新しい財団の設立など新たな動きをみせています。

マーク・ザッカーバーグとFace book

トラブル続きだったザッカーバーグ

大学在学中に巨大組織Face bookを立ち上げたザッカーバーグとFace bookは順調に企業として成長していたものの、トラブルがなかった訳ではありません。元々がフェイスマッシュがFace bookの前身なのですが、これ自体がトラブルの元凶となっていて、その事で多くの女性の反感を買い、更に大学からは処分を受けます。
また多くの損失を生み出した訴訟に関しても“ハーバードコネクション”のアイデアの盗用という問題もウィンクルボス兄弟(このシステムにプログラマーとして誘った)と同じ志を持ち、起業したサべリンから訴えられると言う不運に見舞われ、数十億の損失と借金を背負う事になります。

優秀なブレーンに支えられて

しかしこの時の選択肢の中にFace bookを止めると言う選択もあったのですが、ザッカーバーグは敢えて、苦難の道を選んだことが現在の隆盛になっていると思います。
しかしザッカーバーグの成功は彼1人の力ではない事は当然ですが、有能なブレーンがいて天才プログラマーザッカーバーグが活かされている事で、Face bookは大きく成長したと思われます。ジェフ・ロスチャイルドという優秀なブレーンが運営に関しての助言を与えた事により、Face bookは大きく成長する事になります。また、ジェフが入る事により信用を得ると言う効果もあった。

近年にみる新しい動き

近年のザッカーバーグの動きは活発です。まず、株式の売却に始まる慈善団体LLCの設立など機敏な動きをみせています。このLLCは医学研究の発展の為に設立されたのは医師である妻プリシラの影響も大きいと思われます。そして、AIの科学論文リサーチのMETAを買収しました。その後も医療発展の為に多額の寄付をしています。
また、通信やVRシステムで名が売れていたOculus VR社の買収に始まり、米インスタグラムの買収を決めています。しかしOculus VR社との買収にはおまけがあり、訴訟が起きています。
資産6兆円とも言われるマーク・ザッカーバーグの次の一手はどのような手なのでしょうか。

マーク・ザッカーバーグの名言

マーク・ザッカーバーグの言葉はシンプルで分かりやすい言葉が多いですが、苦労を重ねた彼だからこそ言える言葉も多いでしょう。

「早く動いて失敗せよ」、「リスクをとらないことがリスク」という言葉も肝に銘じています。
普通の会社とは違い、僕たちは金儲けのためにサービスを作っているのではなく、いいサービスをつくるためにお金を稼いでいます。
ハッカーは、マスコミでは悪い意味で使われる事が多いですが、本来ハックとは「物事を素早くやってのけ、可能性を広げる」ことを意味します。
人々が情報をもっとオープンに交換するようになれば、世界はもっと良い場所になる。フェイスブックはその実現を助ける。
完璧を目指すよりも、まずは終わらせろ。
めまぐるしく変化する時代において、必ず失敗する戦略がある。それは一切のリスクをとらないという事だ

マーク・ザッカーバーグの個人的見解

映画「ソーシャルメディア」を見ると、マーク・ザッカーバーグの印象は、意地悪いわがままな男と見てしまいますが、実は少年のような男性ではないかと思われます。億万長者となった今でも、1プログラマーでありたいのではないでしょうか。
たくさんの訴訟を経験して人生の辛さを知った今でも、少年の頃のように新しいソフトを作りたいと思っているからこそ、VRシステムを取り入れたのではないでしょうか。
また近年、無神論者からユダヤ教徒に変更した事は仏教徒妻プリシアの影響が強いでしょう。そしてプリシアの影響は慈善団体LLCの設立と目的にも大きく影響を及ぼしていると考えられます。今後はザッカーバーグ個人だけでなく妻プリシアの行動にも注意してみていくと、流れが読めて来るでしょう。
天才と称されるザッカーバーグですが、運をも味方にしたことによりFace Bookは一流企業となりました。しかし、彼の飽くなき好奇心が原動力になっているでしょう。

ジム・ロジャーズとは?

ジム・ロジャーズの生い立ち

かつてジョージ・ソロス氏とともに立ち上げたヘッジファンドで大成功し、世界の大投資家の一人として名高いジム・ロジャーズ氏。彼の生い立ちを見てみましょう。

投資家になるまで


ジム・ロジャーズは1942年10月19日にアメリカのアラバマ州で生まれました。エール大学に入学し、卒業を控え進路に迷っていた時に、証券会社の面接者と意気投合し、そこで働くことを決めたのが投資との接点の始まりでした。
しかし、当時オックスフォード大学に行くことを決めていた彼は、その証券会社で夏の間だけ働かせてほしいと頼み込み、特別に認めてもらいました。
当時は株式と債券の違いすら分からなかった彼も、頭を働かせて世の中の動きに注目するというこの仕事に魅了されました。
その後、オックスフォード大学を卒業し、除隊後、複数の証券会社に勤めてアナリストとしての腕を磨いていきました。

ジョージ・ソロス氏とヘッジファンドの運用をスタート


1969年、知り合ったジョージ・ソロス氏と共同で投資ファンドを設立し、1980年末までパートナーとして活躍しました。ジム・ロジャーズが調査、ジョージ・ソロスがトレーディングを担当するスタイルで始まったこのファンドは、1970年から1980年末までの10年間で、4,200%という驚異的な成績を残しました。
そして、ジム・ロジャーズは1980年末にヘッジファンドを辞め、同時に引退をしています。

引退後~「冒険投資家」として


ジョージ・ソロス氏と共同設立したファンドを去ったジム・ロジャーズは、自己資金の運用を行うようになり、その後、何度か世界旅行をしています。中でも、1990年~1992年に世界6大陸をオートバイで走破、1999年~2002年には改造したメルセデス・ベンツで116か国を旅し、どちらもギネスブックに記録されました。こうして世界各国を旅行して得た情報を元に投資を行っていたことから、「冒険投資家」や「金融界のインディ・ジョーンズ」などと呼ばれるようになりました。
1990年代には原油や金属、小麦などの一次産品(コモディティ)の価格が上昇する時代がやってくると予想し、自身の商品市場指数を開発したり、早くから中国の時代がやってくるとの予想を元に中国株への投資を推奨するなど、引退後も積極的に投資活動を続けており、現在も著名投資家として数々のコメントを残しています。
2007年よりこれからはアジアの時代がやってくるとし、ニューヨークからシンガポールに移住し、娘に中国語を学ばせています。

ジム・ロジャーズの投資手法

ジム・ロジャーズが世界の偉大な投資家として名を馳せたのは、やはりジョージ・ソロスとのファンドでの大成功でした。では、10年で4,200%と言われている驚異の成績を残せたのはなぜだったのでしょうか。彼の投資手法について見ていきましょう。

ヘッジファンドの先駆者


ジム・ロジャーズの投資手法は、「グローバル・マクロの先駆け」とも呼ばれています。「グローバル・マクロ」とは、一言でいうと、世界の経済動向を調査し、株でも債券でも通貨でも、上昇・下落・横ばいの方向性を捉え、あらゆる取引手法を駆使して利益を狙う、いわば「何でもあり」のファンドを指します。
例えば、原油価格が下落するという見通しが立った時に、物価の上昇が下がることでアメリカの金利が下がると予想してアメリカ国債を買い、一方で原油価格の下落で景気が悪化すると見込まれる産油国ロシアの通貨ルーブルを売って下落に賭ける、というように、世界のあらゆる資産をあらゆる方法で売買して利益獲得を目指すような運用を行います。

先述のファンドの運用において、ジム・ロジャーズは長期的な変化に着目して投資を行っていたとされます。例えば、業界不振で経営危機が起き、代表的な企業が数社倒産しているような状況下の産業で、何か些細な変化があれば底入れが近いと判断し、その企業の株を買う。もしくはその反対で、人気沸騰して株価が大きく上昇している産業が、悪い方向に転換するタイミングを調べ、その企業の株を空売りする、といったように、徹底した調査に基づいて、市場の流れが方向転換する可能性に賭ける「逆張り」の投資を中心に行っていました。

注目されていない国への投資

また、「長期的な変化に着目する」というジム・ロジャーズの投資手法において、有名ななのは、外国(米国外)への投資です。
1980年代、内戦の危機から立ち直ったばかりのポルトガルや、たった9銘柄の株式しか証券取引所に上場されていなかったオーストリア、世界中を旅した際に立ち寄ったボツワナ(アフリカ)などがあります。
これらは、証券会社が投資をおすすめしないというアドバイスを振り切り、実際の環境を自分の目で確かめ、判断することで成功しています。その国の経済環境が良好であるにも関わらず、十分かつ正確な情報が多くの人に行き渡っていないがために割安に放置されている市場に目を付け、入念な調査を行った上で投資を行う、そして周囲がそれに気づき、投資を始めた時には手じまいして利益を手にする、というのが彼の成功パターンの一つだと言えます。

ジム・ロジャーズの名言ベスト7選

世界で大成功した投資家の一人、ジム・ロジャーズの名言を見ていきましょう。

名言その1

[char no=”4″ char=”ジム”]「投資家として成功したいなら、投資の神様といわれている人々の話を聞くよりも、歴史や哲学を学んだほうがいい。」[/char]
★コメント★
テクニックを学ぶよりは、より歴史や哲学を通じて、より普遍的な内容を身に付け、自分の頭で考えることの重要性を説いている言葉です。

名言その2

[char no=”4″ char=”ジム”]「数字や資料を読み、その会社や国のことについて徹底的に調べる。それが面倒なら投資なんてしない方がいい。調査するうえで、情熱はとても需要な要素です。粘り強さに加えて、情熱がなければ成功はできないでしょう。」[/char]
★コメント★
徹底的な調査を通じて成功を収めたジム・ロジャーズならではの名言です。

名言その3

[char no=”4″ char=”ジム”]「みな勘違いをしています。何もしないことが一番賢明という場合が時としてあるのです。類い稀な成功を収めた投資家たちは、実は大半の時間をなにもせずに過ごしています。」[/char]
★コメント★
「休むも相場」という言葉もあるとおり、確信が持てない時は何もしないことが、結局お金を守ることにつながるという言葉です。

名言その4

[char no=”4″ char=”ジム”]「自分の目で世界を見て回ることも大切です。私は2度世界一周の旅をして冒険投資家と呼ばれていますが、いま、その経験が大いに役に立っています。次は中国の時代が来ると確信したのも、88年にバイクで中国を横断し、そこに潜む可能性を肌で感じたからです。テレビや雑誌、インターネットで得られる知識や情報に頼ってはいけません。」[/char]
★コメント★
ジム・ロジャーズは現在もテレビを見ていないのだとか。また、インターネット上で得た情報で世の中を理解したと思っている人の視野は狭い、ともコメントしています。自分で経験し、考えることの大切さを説いています。

名言その5

[char no=”4″ char=”ジム”]「自分で調べた会社の株を買いなさい。さもなければ、家で映画を見ている方がいい。」[/char]
★コメント★
他人からの情報を信じて投資するのではなく、自分で調べ、自分で考えて投資を行いなさいという言葉です。

名言その6

[char no=”4″ char=”ジム”]「社長から得たインサイダー情報で投資すれば、あなたは有り金の半分を失うでしょう。会長から得たものであればすべてを失うでしょう」[/char]
★コメント★
インサイダー情報自体が誤りであったり、途中で捻じ曲げられてしまっている可能性があることから、インサイダー情報などあてにして儲けることなどできないという彼の主張です。

名言その7

[char no=”4″ char=”ジム”]「投資をしていると、歩みを止めることはできません。常にもっと多くのことを学ぼうとし続けなければならないのです。」[/char]
(コメント)
現在70歳を過ぎても投資家として数々のコメントを残しているジム・ロジャーズですが、この学ぶことへの貪欲さが成功の秘訣なのかもしれません。

ジム・ロジャーズについての個人的見解

驚異的な実績を残したジム・ロジャーズですが、最近の発言では予想が外れていることが多いという指摘があります。しかし、彼の投資スタンスは「逆張り」という、多数派と反対の方向に動いて利益を得る投資スタイルであり、予想が外れることが往々にしてある、リスクの高い投資スタイルです。
もしくは、誰も注目していない時に投資を開始するということは、彼の発言や見通しが世の中に注目されている頃には、彼はすでにそれなりの利益を手にしている可能性があるということです。したがって、常に彼の発言を真似して投資を行っても、利益を得られる可能性は低いかもしれません。その発言を見かけているときには彼はすでに利益を確定させ、手仕舞いしている可能性もあるのです。

私の投資手法はツールばかりですが(笑)

しかし、彼の投資行動は参考にならなかったとしても、彼の考え方から多くを学ぶことができるように思われます。とにかく徹底的に調査をして、誰も目を付けていないところにチャンスを見出す、そして、必ず自分の頭で考えるということを彼は主張し続けています。また、彼がどうやって成功したのか、そのプロセスをよく追うことで、自身の投資のヒントになると思われます。

ジェフ・ベゾスとは?

ジェフ・ベゾスの生い立ち


(出所)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%BE%E3%82%B9

発明家だった幼少時代

ジェフ・ベゾスは1964年1月12日にアメリカ南西部にあるニューメキシコ州アルバカーキで3人兄弟の長男として生まれました。1歳の時に両親は離婚し、母に引き取られてテキサス州ヒューストンに移住しました。そこでは、自分の部屋に兄弟が近づくと警告を発するアラームや、傘とアルミホイルで太陽電池を作ろうとするなど、彼は幼いころから発明に夢中でした。
彼はフロリダ州でトップクラスの高校に進学し、コンピュータに興味を持ち始めます。プリンストン大学では、当初物理学専攻で入学したものの、専攻を変えてコンピュータサイエンスと電子工学を学び、1986年に学士を取得しました。在学中はプログラミングやハッキングに夢中になるくらい、コンピュータに夢中になっていたそうです。
大学卒業後、彼は元々企業を志していたものの、まずはビジネスを学ぶために就職することを選びました。そして、ウォール街でコンピュータサイエンスのスペシャリストとして働き始めます。そこでは、証券会社などの金融機関のコンピュータをネットでつなぎ、株の電子取引を行えるようにするシステム構築に従事しました。その後、別の金融機関での勤務を経て、1990年にはヘッジファンドに就職し、コンピュータサイエンスの才能を発揮させ、1992年には若干20代で副社長にまで昇進しました。

企業からAmazon.comの誕生まで

ヘッジファンドで勤務し、順調に実績を重ねていったジェフ・ベゾスは、現在のインターネット等では定番となっているシステムである、ワールド・ワイド・ウェブ(www)の利用率が爆発的に伸びていることに気づきます。そこで、電子商取引が将来的に大きく伸びることを予見。インターネットを使った販売でどのような商品が適しているのかを検討したところ、圧倒的な力を持った企業がいなかった本に目を付け、インターネット書店を立ち上げることを決意、ヘッジファンドを退社し、シアトルに移住して1994年に「Cadabra.com」を開業しました。
その後すぐに社名を「Amazon.com」に改名し、1995年7月16日に正式サービスを開始しました。

Amazon.comの快進撃、そして世界の富豪に

Amazon.comは順調に売上高を伸ばしていったものの、常に資金が不足している状態でした。1997年には株式をNASDAQに上場し、調達した多額の資金により、企業買収を次々と行って規模を拡大させていきました。1999年には食料品販売・宅配会社、スポーツ用品会社、玩具メーカー、宝飾品販売会社と次々と企業買収を行い、取扱商品の幅を広げます。2000年11月には日本でも書籍販売がスタートしました。
2007年には電子書籍端末の「Kindle」を発表、電子書籍販売サービスも開始し、Amazon.comは現在の事業形態に近づいていきました。今では世界14か国でサイトが運営されており、多くの国で支持を集めるオンラインストアになっています。
こうしたAmazon.comの快進撃によって、株価は上昇し、彼自身もフォーブスの「世界長者番付」で2016年には5位、2017年は常に1、2位に位置しているビル・ゲイツ、ウォーレン・バフェットに次ぐ3位の大富豪となりました。現在もAmazon.comのトップとして指揮を続けており、Microsoft社のビル・ゲイツが引退し、Apple社のスティーブ・ジョブズ亡き今、IT業界で最も注目すべき人物とされています。


(出所)https://www.amazon.com/

ジェフ・ベゾスのエピソード

従業員にはシビア

相当の倹約家で、会社でも、重役でも飛行機はエコノミークラスを使うようにする、繁忙期のホテルは1部屋に2人で泊まらせる、カラープリンタは使わない、といったルールがあり、徹底的な倹約を奨励しているそうです。自身の役員報酬は年間8万ドル(現在の為替レートで約880万円)と、日本人の大企業に勤める管理職程度と低く、他の役員報酬も17.5万ドル以下に抑えています。
また、従業員には自分自身のすべてを投入する覚悟で仕事に取り組んでほしいとの思いもあり、相当に仕事熱心であることを求められているため、従業員にとってはシビアという評判もあります。例えば、社員全員にバスの定期を配ろうという提案を却下した、ということもあったそうです。これは、バス通勤にすると、バスの最終便に間に合うよう仕事を切り上げる社員が増えるため、バスの時間を気にせずに勤務して欲しいと考えているようです。こうした姿勢が、従業員にとって劣悪な労働環境になっているとして、国際労働組合総連合からは「世界最悪の経営者」に選出されるなど、「ブラック企業」と評価されることも少なくありません。
徹底した倹約家であり、また、従業員にとっては非常にシビアであるものの、顧客第一優先ゆえの姿勢なのかもしれません。

一貫した長期的視点の持ち主

Amazonは、投資家から、株主への配当を行わず、多くの決算期で赤字を出し続ける企業としても有名です。これは、稼いだ分をどんどん投資に回しているためです。
彼は意義ある事業であれば何年も投資を続けることをためらわず、一貫して長期的視点を持ってビジネスに取り組んでいます。
彼の一貫した長期的視点に関しては、2000年のドットコム・バブルのエピソードがあります。当時米国では、インターネットを通じた電子商取引の可能性への期待から、1999年から2000年にかけて多くのIT関連企業の株価が異常なほどに上昇していました。
しかし、その過剰な期待が崩れ、株価が暴落しバブルが崩壊へ向かう際に、他のITベンチャー企業等とAmazonは同列に扱われ、「Amazonは終わった」という意見も見られていました。
ジェフ・ベゾスも資金集めに投資家を回った際に、多くの投資家から、インターネット上の本屋は勢いを失い、いずれ「バーンズ・アンド・ノーブル」(アメリカで最大の書店チェーン)に潰されることになる、と指摘されました。さらに、がハーバード大学のビジネス大学院に講師として呼ばれた際に、学生からも「バーンズ・アンド・ノーブルに身売りしたほうがいい」と言われたそうです。
こうしたAmazonに対する悲観的なムードの中でも、インターネットやAmazonの可能性はこんなものではないと、彼はまったくブレることなく、冷静でいたそうです。結果として、彼の考えは正しく、ドットコムバブルの後、多くの企業が姿を消しましたが、Amazonはそれを乗り越え、大企業に成長しました。

ジェフ・ベゾスの名言ベスト7選

ジェフ・ベゾスの名言を見ていきましょう。

〔名言その1〕
「我々はAmazonで3つの大きなアイデアに18年間こだわってきました。そしてそれが我々が成功した理由でもあります。その3つの大きなアイデアとは、お客様を第一に考える、発明し、そして忍耐強くいることです。
(コメント)
Amazonの成功の秘訣は、顧客本位のビジネスを続けるというとてもシンプルなものであったということでした。

〔名言その2〕
「成功の秘訣は他社の動向に気をとられないことです。」
(コメント)
とにかく顧客の視点で様々なアイデアを形にしてきたAmazonですが、競合他社ではなく、顧客のニーズに焦点を当て、自分たちの頭で考え、自分たちのオリジナルのアイデアで取り組んできたからこそ、ここまでの大きな成長があったのかもしれません。

〔名言その3〕
「自分の情熱を本当に注ぐことができる仕事を興し、それが顧客に大きな価値を提供できるものならば、成功への道は開かれています。」
(コメント)
自分が情熱を持って取り組める仕事を見つけることだけでなく、顧客に何をどれだけ提供できるかという視点も成功には不可欠だとジェフ・ベゾスは説きます。

〔名言その4〕
「昔は、30%の時間を素晴らしいサービスを構築することに捧げ、70%の時間をそれについて喧伝する世の中でした。だが今や新しい世界では、それは逆です。」
(コメント)
これまでは広告・宣伝することが一般的であったのが、これからはそれよりも顧客満足度を高めることにお金や時間をかける必要があるという彼の主張です。

〔名言その5〕
「誰もがコールセンターで働けるようにならなければいけない。」
(コメント)
顧客本位のビジネスを徹底的に追及するアマゾンにとって、顧客の声を直接聞けるコールセンターは非常に重要な部署に位置付けられています。実際にアマゾンではジェフ・ベゾス自身も含め、管理職が毎年2日間のコールセンタートレーニングを受けるそうです。

〔名言その6〕
「もしあなたが批判されたくないのなら、もう何も新しいことをするな。」
(コメント)
新しいこと、誰も見たこともないことをするには、誰かの批判は避けて通れない。批判を恐れていては何もできないということです。これまで世の中を大きく変える影響を与えてきた他の経営者にも見られる言葉です。

〔名言その7〕
「(多くの企業が上手くいかないのは)各地域の担当者が現地の顧客ではなく、本社の上司を喜ばせようとするからです。」
(コメント)
社員の向いている方向が顧客ではなく、自分の上司に向いてしまっていては、結局顧客の支持を失い、企業としても成功できないという言葉。特に、一部の日本のサラリーマンにとっては耳の痛い言葉かもしれません。

(出所)http://zapzapjp.com/35214058.html

ジェフ・ベゾスについての個人的見解

ジェフ・ベゾスの事例で考えさせられるのは、ビジネスで最も重要なのは顧客である、という当たり前のことを実践することで成功に近づける反面、それが極めて難しいということです。

ビジネスで最も重要なのは顧客であるということは誰もが分かっているようで、実はただ会社のイメージを良く見せるためのうわべだけのメッセージであったり、会社の中で顧客ではなく内部の組織を見て仕事をしてしまう、といったことは往々にしてありうることだと思われます。お客様第一を謳いながらも当時は一流企業だったにも関わらず、時代の変化についていけずに淘汰されたり、不祥事を起こして市場から退場させられる企業は何度も繰り返し現れます。それだけ顧客本位のビジネスを行うことが正しいと分かっていても実践するのが難しいということでしょう。

しかし、ジェフ・ベゾスの姿勢からそれを徹底して実践していることが読み取れ、それが大きな結果に繋がっていることも分かります。彼の姿勢を見ていると、ビジネスの規模の大小や、業種の特性によって当てはまらないということはなさそうです。あくまでも商品やサービスを提供する相手のことを考え、どうすればニーズを満たすことができるのかを徹底的に考えることの大切さをジェフ・ベゾスは示しているように見えます。彼の成功は、就職してからも若くして出世しているように、本人が極めて能力の高いビジネスマンであることも疑いのない要素の一つですが、ビジネスが上手くいくかの答えは顧客にあるという原則に従い、それをとにかく突き詰めていったこともかなり大きな要素であると言えるでしょう。

ビル・ゲイツとは?

ビル・ゲイツの生い立ち


(出所)http://www.gizmodo.jp/2013/04/high1981.html
ビル・ゲイツとポール・アレン。右は1981年の写真で、左は2013年にそれを再現して撮影されたもの。

ある意味で世界を変えたと言ってもいいくらい、情報技術の分野で世の中に大きな影響を与えたビル・ゲイツ。その生い立ちを見ていきましょう。

若くからプログラミングに熱中

ビル・ゲイツは1955年10月28日にシアトルで生まれ、裕福な家庭で育ちました。ビル・ゲイツは通称であり、本名は「ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ3世」です。1967年に当時シアトルで授業料が最も高い学校であるレイクサイド校に入学しました。この学校では、当時では極めて珍しく、学校にコンピュータが置かれており、ビル・ゲイツは13歳でコンピュータプログラミングを始めるようになりました。また、この学校では、マイクロソフトの共同創設者、ポール・アレンと出会います。
高校時代には、ポール・アレンとともにゴミ収集箱に潜り込んでプログラムのソースコードを探したり、学校のパソコンにハッキングしたりとコンピューターに熱中していました。また、この時にポール・アレンとともにトラフォデータ社を創業し、自治体向けに交通量を計測するシステムを作成したり、民間企業の給与計算システムのプログラミングに携わったりするなど、すでにプログラマーとしての実力をつけていきました。
1973年にはハーバード大学に入学。しかし、専攻の法学には熱中することができず、プログラミングへの関心が高まる中、後に休学することになります。

マイクロソフト社の設立と「Windows」の誕生

マイクロソフト本社(アメリカ・ワシントン州)
(出所)https://en.wikipedia.org/wiki/Microsoft

1975年に、ビル・ゲイツとポール・アレンは、初心者向けのプログラミング言語である「BASIC(ベーシック)」を「アルテア 8800」という個人向けコンピュータに移植させることに成功。この時にマイクロソフト(Micro-Soft)社を設立します。同時に、大規模で、広い置き場所を確保するようなコンピュータの時代が終わり、個人向けの小さなコンピュータを使用するのが主流となる時代が始まり、マイクロソフト社の快進撃が始まることになります。
プログラミング言語の開発に続き、ビル・ゲイツとポール・アレン率いるマイクロソフト社は、次にIBM社から、同社のコンピュータ向けのオペレーティング・システム(コンピュータを動かすためのソフトウェア)である「MS-DOS」を開発。しかし、いずれ「MS-DOS」では将来通用しないことを考えたビル・ゲイツは、「Windows」を1985年11月にリリースします。当時のWindowsは実用性に乏しかったものの、徐々に改良を重ね、1990年から「Windows 3.0」が大ヒットし、パソコンの標準ソフトとしての地位を確立しました。そして、1995年にリリースされた「Windows 95」は世界で圧倒的なシェアを得て、マイクロソフト社は世界の一流企業にまで成長するようになります。

 

引退後~世界一の富豪に

2000年にはCEO(最高経営責任者)の座をスティーブ・バルマー氏に譲り、「チーフソフトウェアアーキテクト」という肩書としてソフト開発に専念するようになると同時に、「ビル&メリンダ ゲイツ財団」を設立し、慈善事業を開始しました。2008年にはチーフソフトウェアアーキテクトの座を後任に譲って第一線を引退。2014年には会長の座も退き、「ビル&メリンダ ゲイツ財団」の活動に専念し、世界最大規模の慈善事業団体として、貧困や疫病の撲滅などに積極的に取り組んでいます。
また、これまでのアメリカの雑誌「フォーブス」の世界長者番付で、1995年から2007年まで13年連続で世界一となり、億万長者としても有名となりました。その後、一時は順位を落としたものの、2014年~2016年には3年連続で再び1位の座となり、長期間にわたって、世界有数の富豪の座を維持しています。


(出所)https://en.wikipedia.org/wiki/Bill_Gates

ビル・ゲイツのエピソード

コンピュータの分野で多大な貢献を果たし、経営者としても大成功したビル・ゲイツ。その数々のエピソードを見ていきましょう。

スティーブ・ジョブスとの関係

競合他社であるアップル社のスティーブ・ジョブズとは交流があり、ビル・ゲイツがマイクロソフト社をスタートさせた初期に、彼はアップル社を訪れて学んでいました。その後、アップル社のコンピュータ「Macintosh」をビル・ゲイツは大いに賞賛し、80年代にはマイクロソフト社とアップル社は協力関係を結んでいました。
しかし、1990年代のWindowsの発表によって、スティーブ・ジョブズはアップル社の成果をマイクロソフト社に奪われたとして、二人の関係には軋轢が生じましたが、2007年にはイベントに共演し、最大のライバルでありながらも、お互いに尊敬し合っていることを表明しています。


(出所)https://en.wikipedia.org/wiki/Bill_Gates

無駄遣いへのこだわり

ビル・ゲイツは世界でも有数の大富豪であるにもかかわらず、倹約家でもあります。一般旅客機に乗る時には、極力エコノミークラスに座るようにしていたようです。その理由は、ファーストクラスだろうとエコノミークラスだろうと払う金額が大きく違っても、到着する時間は同じだから、とのこと。会社が大きく成長を続けているときも、会社の方針は変わらず、出張にはエコノミークラスを使うことを義務づけていたそうです。
また、出張先のホテルについても、寝る場所とインターネットが使用できる環境があれば十分だとして従業員が広い部屋に宿泊するのを嗜めたというエピソードも残っています。

読書家

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ビル・ゲイツは、相当な読書家で、平日は1日1時間以上、週末もさらに多くの時間を読書に費やしているそうです。自宅には個人図書館を備え、1万4,000冊以上の蔵書があると言われています。また、年に2回ほど、「Think Week(考える週)」という時間を設け、外部からの情報を遮断し、食べることと寝ること以外はすべて読書と考えることに時間を使っています。
読書の習慣は両親の影響によるもので、彼の両親は書物を身近に置き、平日はテレビ鑑賞を禁止し、読んだ本の感想から政治のことまで、あらゆる問題について親子で話したそうです。「僕の子供はもちろんコンピュータを持つだろう。しかし、それより前に本を手にする」という言葉は、コンピュータの分野で大成功した彼ですら、読書の大切さを極めて重視しているという、含蓄のある言葉だと言えるでしょう。


(出所)http://labaq.com/archives/51847674.html

ビル・ゲイツの名言ベスト7選

ビル・ゲイツの名言を見ていきましょう。

〔名言その1〕
[char no=”5″char=”ビル・ゲイツ”]「1日24時間では処理しきれないほど難問がある。だから、無駄にしている暇はない。」[/char]

(コメント)
特に経営者の多くが口にする時間の貴重さですが、彼は飛行機が出発するギリギリまで会社で仕事をし、猛スピードで空港に向かい、飛行機に飛び込むように乗っていたそうです。

〔名言その2〕
[char no=”5″ char=”ビル・ゲイツ”]「成功の鍵が何かは知らないが、失敗の鍵は全ての人を喜ばせようとすることです。」[/char]

(コメント)
万人受けするものなどありえないというビル・ゲイツの言葉。好みが分かれそうなコンピュータの世界では特に重要な考え方なのかもしれません。

〔名言その3〕
[char no=”5″ char=”ビル・ゲイツ”]「成功というのはやっかいな教師です。賢い人々を臆病者になるよう誘惑してしまいますから。」[/char]

(コメント)
成功は慢心を呼び、今失敗などありえないと思わせてしまうからこそ、成功することが良いこととは限らないという彼の考えです。

〔名言その4〕
[char no=”5″ char=”ビル・ゲイツ”]「成功を祝うのはよいことですが、もっと大切なのは失敗から学ぶことです。」[/char]

(コメント)
これも先の名言と同じ趣旨であり、現状に満足することなく、前向きな姿勢でいることの大切さを説く言葉です。ビル・ゲイツ自身も多くの失敗を経験し、そこから得たものが大きかったのでしょう。

〔名言その5〕
[char no=”5″ char=”ビル・ゲイツ”]「私は自分の富を社会に還元させなければならないと10年くらい前に気が付きました。想像しがたい規模の財産は、子供たちに手渡さないことがベストです。彼らにとって建設的ではないからです。」[/char]

(コメント)
世界一の大富豪だからこそ重みを持つ言葉です。お金がたくさんあることが子供たちのためになるとは限らないという主張は、ビル・ゲイツだけでなく、他の大富豪の言葉にも見られます。

〔名言その6〕
[char no=”5″ char=”ビル・ゲイツ”]「あなたの顧客の中で、一番不満を持っている人こそ、あなたにとって一番の学習源なのです。」[/char]

(コメント)
「クレームは宝の山だ」という言葉があるように、顧客の不満は、「こうしてくれたらもっと良くなるんだよ」というメッセージでありヒントであるという姿勢で受け止めることの大切さをビル・ゲイツも指摘しています。

〔名言その7〕
[char no=”5″ char=”ビル・ゲイツ”]「オタクには親切に。いつか彼らの下で働くことになるでしょうから。」[/char]

(コメント)
「オタク」自身である本人から出た言葉です。半分ジョークのようにも思えますが、一つの知識・技術に特化した人間こそが優れた成果を残す可能性が高いことを示唆する一言だとも言えるでしょう。

(出所)https://goo.gl/KcQf8N

ビル・ゲイツについての個人的見解

ビル・ゲイツの成功から我々が学び得ることは、コンピュータに関する知識といった特定の内容よりも、得意なこと、好きなことをいち早く見つけ、それに対して徹底的に時間を費やしたこと、そして、相棒の存在ではないでしょうか。

彼はIQ160もある天才と言われていますが、その生まれ持った資質に加え、好きなことを見つけ、徹底的に努力を続けたことが、彼を大成功に導いたと言えるでしょう。13歳でコンピュータと出会い、その面白さに魅了されたことで、人生の中で時間をもっとも費やすべき対象にいち早く気付き、それに関する知識・技術を、寝食を忘れるほどの情熱を持って学ぶことで、若くから成功しました。

そして、ビル・ゲイツの成功になくてはならなかったのは、相棒の存在です。彼にはポール・アレンという相棒がおり、相棒の存在も彼の成功に大きく影響しています。ビル・ゲイツはソフトウェアにしか関心を示さなかったのに対して、ポール・アレンはハードウェアが得意でした。また、性格も対照的だと言われており、お互いが持っていないものを補いあい、また、お互いを刺激しあうことのできる存在が、彼を並々ならぬ大成功に導いたとも言えるでしょう。

いち早く自分が情熱を持って取り組めるものを見つけ、同じ志を持った人と出会い、同じ方向を向いて貴重な時間を使うことが、ビル・ゲイツのような成功を収めるヒントかもしれません。

 

スティーブ・ジョブズとは?

相棒との出会い

スティーブ・ジョブズは1955年2月24日に、シリアからの留学生アブダルファン・ジャンダリとアメリカ人の大学院生ジョアン・シンプソンとの間に生まれました。しかし、ジャンダリがムスリムであることから(一説には移民であることが理由とも)、ジョアンの父が難色を示したために二人の結婚が認められず、彼はポール・ジョブズ夫妻へ養子に出されました。当時はおとなしく、内向的な性格のオタクだったと言われています。
1971年、高校生になったとき、ヒューレット・パッカード社の夏季インターンシップに参加し、そこで、生涯の相棒であり、アップル社の共同設立者となるスティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会い、意気投合します。
二人は「フリーキング」と呼ばれる、電話を無料でかける不正行為ができる装置を造り、当時ウォズニアックの通っていた大学の寮でそれを売りさばいていました。


(コメント)若き日のジョブズとウォズ
(出所)http://gigazine.net/news/20140120-steve-jobs-and-wozniak-truth/

大学中退と就職

その後、ジョブズは1972年にはオレゴン州のリード大学に進学したものの、半年で中退。しかし、中退後もリード大学の敷地内をふらつき、哲学やカリグラフィー(西洋・中東の文字を美しく見せる手法)の講義に潜り込み、自身が興味を持った授業を受けていました。
その後、インドまで旅をするための旅費を確保するため、1974年にビデオゲーム会社であるアタリ社に下級エンジニアとして働きます。そして旅費を工面し、念願かなってインドへ向かったものの、インドの現実に失望し帰国、1975年にアタリ社に復職することになりました。

アップルコンピュータの設立とMacintoshプロジェクト

1976年、ジョブズとウォズの二人は、個人用コンピュータ(パソコン)である「Apple Computer Ⅰ」を売り出すことにしました。ウォズが勤め先のヒューレット・パッカードで、彼が開発したパソコンの商品化を上司に提案したものの、却下されたため、二人はこのコンピュータを自分たちで販売することにしたのです。
1977年にはアップルコンピュータを法人化。同年にはさらに能力を向上させた「Apple Ⅱ」を発売し、1980年10万台だった販売台数は1984年には200万台を超え、莫大な利益を稼ぎ出しました。
その後、次世代コンピュータの開発に着手し、1984年には新しいコンピュータであるMacintoshをリリースします。


(コメント)ウォズが制作した「Apple Ⅰ」
(出所)https://en.wikipedia.org/wiki/Apple_I

アップル退社と復帰

1984年、Macintoshは当初の想定ほど売れず、大きな在庫を抱えたアップルは赤字を計上、人員削減を強いられることになります。社内の混乱もあり、ジョブズは1985年、アップル社を離れることになりました。
アップルを退社後、ジョブズはNeXT社を設立して新しいコンピュータの開発・製造に取り組み、1986年に映画監督ジョージ・ルーカス率いるルーカスフィルムのコンピュータ部門を買収し、社名をピクサーとし、後に「トイ・ストーリー」などのヒット作を世に送り出します。
1996年12月、アップル社はジョブズ率いるNeXT社を買収することで合意し、ジョブズはアップルに非常勤の役職ながらも復帰を果たし、2000年にはCEO(最高経営責任者)に就任しました。

アップルの躍進、死去

ジョブズがアップル社のCEOになった同年、アップル社は音楽事業に参入し、メディアプレイヤー「iTunes」と携帯型音楽プレイヤー「iPod」をリリース。大ヒット商品となりました。2007年にはスマートフォン「iPhone」、2010年にはタブレット「iPad」をリリースし、こちらも世界中を席巻し、アップルは世界でも有数の大企業に成長しました。
しかし、アップルが急成長を続ける最中の2011年8月、かねて患っていた癌が悪化したことで業務が不可能になったことでCEOを辞任。すでに手の施しようのない状態となっていたジョブズの病状はさらに悪化し、同年10月5日に転移した癌による呼吸停止で56歳の生涯を終えました。IT業界に大きなインパクトを与えた人物として、長年のライバルであり友人で会ったビル・ゲイツをはじめ、世界中の多くの人々がその死を惜しみました。


(コメント)スティーブ・ジョブズの自宅があるパロアルトのアップルストアに向けられた花束やメッセージ
(出所)https://en.wikipedia.org/wiki/Steve_Jobs

(1512文字)

スティーブ・ジョブズのエピソード

過激な経営者

かなり厳しい経営者と言われるジョブズですが、数々のエピソードがあります。エレベータで初めて会ったアップルの社員に「君は、Appleのために何をしている?」と尋ねたところ、すぐに答えなかったことに立腹して解雇したり、ミスをした社員に対して凄まじい罵声を浴びせたりするなど、激しい性格の持ち主だったようです。部下を叱咤激励し、より高い目標に向かわせる優れた上司という評価がある反面、人によっては相当に嫌な人という評価もあり、かなり見方が分かれる経営者だと言えるでしょう。

年俸1ドルのCEO

一度去ったアップルに復帰したジョブズは、CEOに就任してから報酬1ドルで当時不振であったアップルの立て直しに全力を尽くしました。彼はピクサーの収入があるとしてアップル社のために自分への給与を惜しみ、アップル社を世界的大企業に育てあげました。

マイクロソフト社との資本提携

ライバルとされていたビル・ゲイツとは若いころに親交があり、1980年代にはビル・ゲイツ率いるマイクロソフト社とアップル社は協力関係にあったほどでした。しかし、Windowsの登場によって、二人の関係に軋轢が生じ、しばらく疎遠な状況が続きました。
ジョブズがアップル社に復帰して間もない1997年、ライバルであったアップル社に対し、マイクロソフト社が資本提供と技術提携を行い、アップル社の立て直しに貢献しました。また、ビル・ゲイツとは長年のライバルでありながらも、互いを尊敬し合う良い関係であったと言われています。

日本文化への関心

ジョブズは若いころから仏教徒であり、禅の教えに関心を持っていました。また、日本文化に強い関心も持っており、よく京都を訪れていたそうです。また、プレゼンの際によくみられ、トレードマークである黒のタートルネックは、日本のデザイナー三宅一生氏のデザインしたもので、ユニフォームとして着続けました。

スティーブ・ジョブズの名言ベスト7選

スティーブ・ジョブズの名言を見ていきましょう。

〔名言その1〕
「Stay hungry. Stay foolish.」
(コメント)
「自分の信念に従い、信じた道をまっすぐに突き進め」という、エールとして大学の卒業スピーチで語った有名な言葉(解釈には諸説あり)

〔名言その2〕

「この地上で過ごせる時間には限りがあります。本当に大事なことを本当に一生懸命できる機会は、2つか3つくらいしかないのです。」
(コメント)
人生で自分が本当に情熱を持って取り組める時間には限りがあるだけに、時間の貴重さを教えてくれる言葉です。

〔名言その3〕
「残りの人生も砂糖水を売ることに費やしたいか?それとも、世界を変えるチャンスが欲しいか?」
(コメント)
当時ペプシコーラにいたジョン・スカリーをアップル社に引き抜く際に使った口説き文句。スカリーはマーケティングに優れた人物とされ、ジョブズは熱烈なラブコールでスカリーをアップル社に迎え入れます。

〔名言その4〕
「アップル社をクビになったことは、人生で起こった最高の出来事でした。成功の重さは、再び初心者になったことで軽くなりました。自由になり、人生で一番クリエイティブな時期を過ごすことができたのです。」
(コメント)
アップル社を離れた時を振り返った時の言葉。身軽になったことで反対にやりたいことに取り組むことができるようになったというポジティブな姿勢がうかがい知れます。

〔名言その5〕

「他者の意見に耳を傾け過ぎて、自分の心の声がかき消されてはいけません。最も大事なのは、自分の心と直観に従う勇気を持つことです。あなたは、すでにどうなりたいかを直感的に知っているのですから。それ以外の全ては重要ではないのです。」
(コメント)
自分がどんな人生を生きたいかは、他社ではなく自分に聞いてみるのがよいという教え。彼はそれを愚直に実行し、充実した人生を送りました。

〔名言その6〕

「テクノロジーは重要ではありません。大事なのは、人は賢いということ、そして人を信じることです。人に道具を与えれば、それを使って素晴らしいことをするでしょう。」
(コメント)
テクノロジーが全てではなく、あくまでもそれを使う人間が大事であるという彼の主張。彼は数々の革新的な商品を世に送り出しましたが、人間の可能性に注目していたのかもしれません。

〔名言その7〕
「皆いずれ死ぬというのを思い出すのは、失うものなど何もないということを気づかせてくれる最善の方法です。」
(コメント)
限りがある人生だからこそ、恐れずに挑戦することを彼は説いています。彼の人生はまさに挑戦の連続だったのでしょう。

(出所)https://www.amazon.co.jp/STEVE-JOBS-WALTER-ISAACSON/dp/1451648537

スティーブ・ジョブズについての個人的見解

 

養子に出されたことから始まって、インドを旅したり、自分が設立した会社を追われ、また復帰するなど、波乱万丈の人生を生きたスティーブ・ジョブズ。彼は、彼の経営術やプレゼンテーションといった、ビジネスマンが参考にするような技術的内容に留まらず、彼の人生や言葉そのものが、多くの人々に多大な影響を与えたのかもしれません。

彼は、支配欲がかなり強かったとも伝えられており、よく部下を叱責したり、罵声を浴びせたりするなど、なかなか理解しがたい行動・言動が見られたことから、悪い評価があることも事実であり、そういったエピソードも彼自身が自分の人生に真剣に向き合い、やりたいことをやるという信念に基づいたものだったのかもしれません。こういったエピソードは彼の短所を説明するものとして伝えられていますが、事実、不振であったアップルを立て直し、最終的には世界有数の大企業にまで成長させるだけの才能に恵まれていました。

伝えられる彼の奇行や激しい気性といったものは、なかなか参考にできる部分は少ないかもしれませんが、彼が遺した時間の貴重さや、仕事に対する考え方、本当に熱中できるものとの出会いの大切さにまつわる数々の名言は、彼が亡くなったことでより大きな影響力を持ったと言えます。彼が経営者としてどのようにアップルを世界有数の大企業に成長させたか、また、どのようなプレゼンテーションをしたかを学ぶことも有益ですが、彼が人生において限られた時間をどう使ったかを振り返ることで、私たちも自分の人生を振り返り、また、どう生きていくかを考える上で大きな参考になると思われます。


(コメント)アップル社創業の地とされるジョブズの実家(カリフォルニア州ロスアルトス)
(出所)https://en.wikipedia.org/wiki/Steve_Jobs

ジョージソロスとは?

トランプ大統領就任以来金融市場は、大変目まぐるしい動きをしています。一寸先は闇そんな言葉が良く似合います。特に為替の変動は大きく日替わり相場のような様相を呈しています。

投資家や証券会社でさえ先の見えない市場に大きな困惑と疲労感が見えます。

そんな戦場のような金融市場にあって今なお、伝説となっている人物がいます。

ジョージ・ソロスです。このユダヤ系の人物ほど評価の別れる人物はいません。ある者は天才と称し、ある者は悪魔と称します。

特に日本・アジアではあまり良い印象を持っていないというのが正直な感想です。

そんなジョージ・ソロスの生い立ちや彼の投資手法などをまとめてみました。

ジョージ・ソロスの生い立ち

波乱の幼少時代からイギリスへ

ジョージ・ソロスは1930年ハンガリーのブタペストに生まれます。彼の両親はユダヤ系であり、ハンガリーでの名前はショロシュ・ジョルジと言います。当時はナチス統治下にあった為に法律家であったが、戦場へと向かい捕虜となるも何とか逃げ出し、それは当時少年であったソロスも例外でなく混乱する戦場を逃げまわっていました。また、この時期に本当の父親からナチスの手から逃れる為に偽造身分証明書を違う人物に生まれ変わるだけでなく、彼は本当の父と別れ役人の養子となりユダヤ人の財産を没収するという屈辱的な仕事をします。このことは彼にとって大きな傷を作ります。
その後、17歳になったソロスはイギリスへと渡り仕事をしながら、名門ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスで2年程経済学を学ぶと共に後のソロスの思想に大きな影響を与える哲学者カール・ポッパーとの出会いは大きな転機となります。卒業後は宝石店や銀行勤務を経て、ニューヨークのウォール街へと移ります。

波乱のニューヨークと出会いと別れ

元々金融に興味を持っていたソロスはウォール街でF.M.マイヤー社で投資家としてのキャリアをスタートさせると、ここで運命的な出会いをします。現在でも有名なジム・ロジャースとの出会いで二人の天才的な投資家の出会いは、1973年にクォンタム・ファンドの前身となるソロスファンドを立ち上げます。
二人はヘッジファンドを活用して巨万の富を築き上げていきます。ソロスがトレーダーとしての経験を活かして投資し、ロジャースがアドバイスを送るといった関係性でした。しかし、この蜜月の関係も続かず1980年にロジャースが退社すると、翌年ソロスファンドは大きな損出を出し、運用資金が4億ドルから2億ドルになったのです。この危機を何とか乗り切ったソロスはブラックマンデーなどの金融危機も最小限の損出で乗り切ります。

世界のソロスへ


1990年代に入るとソロスはその名を世界に知らしめる事になります。伝説的な「ポンド危機」です。この時に大きな利益を得ます。その額が10億とも20億ともまたそれ以上とも言われています。ちょうどヨーロッパがユーロへの統合の準備を始めていた時期で、不況のイギリスもこの流れでドイツに乗っかろうとする流れをソロスはいち早く見抜き、100億ポンドの空売りをするのでした。すると、この流れに投資家達が続々と乗ってきてポンドの売りが続くのです。
その流れに慌てたイギリス政府は対抗策として、金利の引き上げをするもこのソロスが作った流れは止める事も出来ずに、ソロスに完敗を喫するのでした。そしてこの事からソロスは「イギリス銀行を潰した男」の称号を得ます。
そして、クォンタムファンドは世界最大のヘッジファンドとなります。

新たな危機と利益そしてソロスは新しい道へ

1997年にはタイバーツの急落から始まる「アジア通貨危機」でもソロスの敏腕は冴えます。タイのバーツの急落に対して強気でくるタイの首相チャワリットは、ソロスの仕掛けた空売りに対して買い支えを続けるのですが、ソロスに同調したヘッジファンドの勢いは止まることなく、これまでのバーツの変動なしの為替から変動制へと移行せざるを得ない状況になりました。そしてこの流れはタイだけでなく、東アジア、東南アジアと続きアジアの通貨は経験した事のない通貨危機を経験する事となります。ここでもソロスは巨万の富を得ます。
好調に見えたソロスですが、思わぬ落とし穴が待っています。俗にいうITバブルの崩壊です。ITベンチャー企業の隆盛によってもたらされたバブル的株価の上昇は大きな富を生み出す一方で、計画性がない幼稚な計画書が並び投資家達も疑念を持ち始めた時期とアメリカ同時多発テロの影響も重なり株価の暴落がもたらされた。その影響もソロスにも及び、60億ドルとも言われる損失をもたらします。当然ファンドの規模も縮小せざるを得ませんでした。
巨万の富と大きな損失を繰り返しながらも、ソロスは順調に稼ぎ続けて2012年には資産総額は200億ドル以上とも言われるまでになりました。
また、近年では以前より行っていた慈善活動への参加をより一層明確にしています。そして、2011年には投資家からの引退を表明しています。しかし、現在でもソロスの発言には大きな影響力が残っているのも事実です。
しかし2016年にはファンド業界に戻ってきました。中国経済に対する憂慮とも言われています。

最後にソロスの家族ですが、彼は3度の結婚をしており現在の妻は日系のタミコであります。そして4人の息子と一人の娘がいます。子供達もソロスの財団やファンド会社で活躍しています。

ソロスの投資方法

ソロスの伝える再帰性理論

ソロスは哲学者を目指していた事もあり、その言葉は難解であり理解するのが難しい物があります。彼の投資方法の元として有名なのは再帰性理論です。色々な解釈がある中簡単に言うと、株価が上がる事で景気の浮揚を誘いその事で企業収益が上がる事で、更なる企業株価が上がり(ポジティブフィードバック)、その事で更なる景気が上がっていくという事ですが、最後にはその株価の評価に企業が耐えられなく破棄してしまうという理論です。

噂から広げ市場を操作する


現実的にソロスは、自身の言葉から市場を動かそうとする言動もあります。彼はその事を反射理論という言葉で説明していますが、そこには実績と経験と先を読む力が必要となります。現在では、ソロスの動きは市場への影響力は計り知れない物がありますが、駆け出しの頃はそうはいかなかったと思います。
しかし、彼のインタビューなどを読むとそのような行動を仕掛けているような言動もありますが、ソロスの様な先を読む力を持っている人物の言葉には流されていく傾向はあるでしょう。

小さく始めて状況を見て大きな投資をする

その先読みの力が優れていてもソロスは予言者ではないですので、現実的な方法として小さく始めるという手法を用いています。とにかく目を付けた銘柄に投資を少額でしていき、世界の経済動向と政治動向を注視していき、ここぞという時に本格的な投資を行うと言う方法です。一見大きな儲けを持つソロスには似合わないですが、この少額の投資の間に多方面からのたくさんの分析が存在するのです。目先にとらわれないといった現実的な動きです。

ジョージ・ソロスの名言

哲学的な思想を持つソロスの言葉には難解な物がありますが、分かりやすく更に心にしみる言葉が多いのも確かです。その中から幾つか拾ってみました。

・まず生き残れ、儲けるのはそれからだ。

自身の実践的スキルを要約するように問われた時の答えとして私が確かに人より優れている点は、私が間違いを認められるところです。
彼の哲学的な思想が伺いしれる言葉です。人間は過ちを犯す動物という思想から入っているからこそ、言える言葉です。

・成功すれば、人は自分の考えに関心を示してくれるはず

これは、現状のソロスの考えが市場に影響を及ぼしている姿が実証しています。

ジョージ・ソロスの個人的見解

ジョージ・ソロスは人間として大変魅力ある人物である人物だと思われます。

投資家の前に人間であるという思想に立っていると思われます。それは幼少時代の苦しい時期が影響していると思われます。

更にイギリスでの学生生活での哲学的な思想を学んだ事が後々に大きな影響を及ぼしたと思われます。

投資家として大きな成功を収めた人物ですが、大きな失敗もしております。それを認める(公表する)事で更なる成功を手に入れています。そして更なる儲けだけに捉われる事無く慈善事業にも力を入れております。(Wikipedia財団の大口寄付者でもある)

二つの大きく異なる評価を持つのもソロスが人間臭いからではないでしょうか。

一方では悪魔とも言われ、片方ではロビンフッドとも言われる極端な評価は人間として魅力ある人物の表れかもしれません。

ウォーレンバフェットとは?

ウォーレンバフェットの生い立ち

投資家として成功し、億万長者として名を馳せたウォーレン・バフェット氏。彼はどのようにして大投資家になったのでしょうか。生い立ちについてまとめてみました。

ビジネスに熱心だった幼年時代

ウォーレン・バフェットは1930年8月30日にアメリカのネブラスカ州オマハで生まれました。小さいころからビジネスに関心を持ち、競馬の予想表を作成して販売したり、ゴルフボールの回収・転売や、新聞配達の仕事などをしていました。15歳のときには会社を作り、友人と一緒に中古のピンボールゲーム台を床屋に置き、使用料を回収するというビジネスを行って成功するなど、幼いころからビジネスに熱い関心を寄せていました。

株式投資家としてのデビュー

バフェットが株式投資を始めたのは11歳のときで、その後、彼が本格的に投資家としてのキャリアをスタートさせたのは、1954年にバフェットの師匠である、ベンジャミン・グレアムという投資家の投資会社で働き始めたところからでした。ちなみに、バフェットの投資理論は、このグレアムの考えが基本にあると言われています。

その後、2年の下積みを経て、バフェットは1956年に独立し、投資ファンドを立ち上げました。その後、1965年には織物製造会社であった「バークシャー・ハサウェイ」社の経営権を取得し、投資会社として大きく成長させました。

バフェットの師匠、ベンジャミン・グレアムとドッドの著書「証券分析」

バフェットの投資成果は?

バフェットの投資成果は、「バークシャー・ハサウェイ」社の純資産価値(会社の保有資産をすべて売却し、負債を返済した時の会社を解散した時の価値)が、1964年から2015年までの50年間で約8,000倍(798,981%)となっています。
市場での取引価格で見た場合では、同期間で約1万6,000倍。同じ期間のS&P500(米国の代表的な株価指数)は144倍であったことと比較してもその差は歴然です。同社の株に投資していた場合、毎年約20%のペースで資産が増え続けた計算になります。
(数値はバークシャー・ハサウェイ社の2015年アニュアル・レポートより)

こうした驚異的な成績をあげてきたバフェットは、「オマハの賢人」と呼ばれ、世界的にも偉大な

投資家の一人として尊敬を集めています。バークシャー・ハサウェイ社が開催する株主総会には、彼の話に耳を傾けようと世界中から毎年多くの投資家がオマハへ集まります。

2009年に出されたバフェットの伝記「スノーボール」

バフェット率いるバークシャー・ハサウェイ社の株主総会

ウォーレン・バフェットの投資手法

ウォーレン・バフェットは、大手飲料メーカーのコカ・コーラ、クレジットカードのアメックス、一大エンターテイメント会社のウォルト・ディズニーといった、誰もが知っている企業への投資で成功しています。
では、どういった投資手法に基づいて投資を行っているのか、ウォーレン・バフェットの投資手法を見ていきましょう。

バフェットの投資手法を一言で表すと・・・

バフェットの投資手法を一言で表すと、「優良企業株への長期(場合によっては永久)保有と集中投資」です。

「価値はいずれ価格に反映される」という考え方に従って、そのビジネスを展開する企業の「価値」に比べ、その企業の「価格=株価」が安ければ投資し、魅力的である限り保有し続ける、というスタンスがバフェットの投資の基本姿勢と言われています。
そして、その根底にあるのは、「株を保有するということは、その企業のオーナーになることである」という原則です。

したがって、株式市場の動向をうかがい、今は買い方が優勢か、売り方が優勢かといった動向には目もくれず、企業が良質なビジネスを行っているかの分析に多大な労力が費やされます。

バフェットが銘柄を選ぶ基準

バフェットは投資対象を選ぶ際、現在の株価と価値の大小を比較するという視点だけでなく、企業の成長性も考慮に入れて銘柄を選んでいます。
特に、バフェットが重視するのは、ROE(株主資本利益率)の高さとその持続性です。ROEとは、会社に帰属するお金(自己資本)を使って、どれだけ効率よく利益をあげているかを示す指標です。
つまり、少ない自己資本でより高い利益をあげ、得た利益を再投資していけばいくほど、企業価値はどんどんと増えていき、株価もそれを反映して上昇していくことになります。
なお、ROEは借入依存度が高い企業も数値が高くなる傾向にあるため、財務の健全性が保たれているという条件の下で確認する必要があります。

高い収益性を長期間にわたって維持し続けるには、その企業のビジネスの持つ性質にも着目しなければなりません。バフェットは、高い利益を生み出すことのできる企業のポイントとして、頻繁な設備投資や高い研究開発費を必要としないこと、価格競争に巻き込まれにくく、値上げしても売上が落ちにくい、価格決定力があることなどを挙げています。こうした条件に合致しているのが、コカ・コーラやアメックス、ディスニーなどの消費者から圧倒的な支持を得て、市場でも独占に近いシェアを誇っている「消費者独占型企業」です。

バフェットの投資手法にまつわるエピソード

こうしたバフェットの投資手法には興味深いエピソードがあります。1999年末に起こったITバブルでの対応です。当時は、インターネット関連などのハイテク株がブームとなり、株価が大きく上昇しましたが、バフェットはこれらの銘柄について、「事業内容が理解できないから」といって投資を控えました。バフェットの投資成果は相対的に振るわなかったものの、ハイテク株はその後暴落し、バフェットは結局無傷でした。

企業のオーナーになる以上、自分が理解できないものには投資しない、という投資スタンスを忠実に守り続けていることがこのエピソードからうかがい知れます。

ウォーレン・バフェットの名言ベスト7選

ウォーレン・バフェットは数々の名言を残しています。そのジャンルは投資に限らず、仕事論や人生観など、幅広くに及びますが、その中でも投資に関する名言を7つに厳選してご紹介します。

〔名言その1〕
[char no=”3″ char=”ウォーレンバフェット”]「株式投資の極意とは、いい銘柄を見つけて、いいタイミングで買い、いい会社である限りそれを持ち続けること。これに尽きます。」[/char]
★コメント★
「言うは易く行うは難し」ですが、バフェットの投資手法の根幹にあるものです。

〔名言その2〕
[char no=”3″ char=”ウォーレンバフェット”]「常に株券ではなく、ビジネスを買うという投資姿勢が必要です。」[/char]
★コメント★
こちらもバフェットの投資手法の根幹にある、ビジネスに着目する重要さを説いた名言です。

〔名言その3〕
[char no=”3″ char=”ウォーレンバフェット”]「私は愚か者にでも経営できる企業の株を買うようにしています。なぜなら、遅かれ早かれそういう人間が経営するのですから。」[/char]
★コメント★
長期投資において経営者が交代する可能性が十分ある中、誰がやっても上手く運営できるようなビジネスを選ぶことの重要性を説いています。

〔名言その4〕
[char no=”3″ char=”ウォーレンバフェット”]「証券取引所が今後10年間閉鎖されたとしても、喜んで保有し続けることができる株だけ[/char]
を買いなさい。」
★コメント★
今日明日、今月来月の株価に一喜一憂せず、投資先の企業のビジネスによってもたらされる利益に注目すべし、というバフェットの投資手法の基本にある考え方から生まれた名言です。

〔名言その5〕
[char no=”3″ char=”ウォーレンバフェット”]「時代遅れになる原則はそもそも原則ではありません。」[/char]
★コメント★
時代によって通用したりしなかったりするものは原則ではないという、長年にわたって投資を続けてきたバフェットが言うからこそ重みのある言葉です。

〔名言その6〕
[char no=”3″ char=”ウォーレンバフェット”]「分散投資とは、無知から身を守るための手段です。投資において自分が何をしているか分かっている人にとっては、分散投資は理にかなった方法ではありません。」[/char]
★コメント★
自分が理解できるものにしか投資しない、というバフェットの姿勢から発せられた言葉です。

〔名言その7〕
[char no=”3″ char=”ウォーレンバフェット”]「お金持ちになるためのルール
<ルール1>絶対にお金を損しないこと。
<ルール2>絶対にルール1を忘れないこと。」[/char]
(コメント)
これも名言としてよく知られている言葉です。とにかくお金を失ってはいけないというバフェットの確固たる姿勢がうかがえます。

ウォーレン・バフェットについての個人的見解

こうしたバフェットの生い立ちや投資手法から、我々日本人が最初に考えそうなことは、「日本株にもバフェットが喜んで投資したがるような銘柄があるのだろうか?」ということでしょう。
結論としては、現在のところ、日本でバフェットの選定基準に合致する銘柄は「全く無いあ訳ではないが、アメリカほど見つけにくい」と考えられるでしょう。理由としては主に2つあります。

理由① 日本のROEが低いこと

日本ではあまりROEを重視した経営が行われていなかったと言われており、実際に国際比較においても、日本のROEは相対的に低いと指摘されてきました。

理由② 日本の人口減少

バフェットが好んで保有するような「消費者独占型企業」は、独占的な市場を持ち、なおかつその市場が拡大(=売上が増加)していくことによって利益をさらに成長させていきます。しかし、日本では少子高齢化と人口減少が進んでいます。一般論としてみた場合、国内市場の拡大は望めないことから、日本において売上・利益を長期にわたって成長させていく企業を探し出すのはなかなか難しいと言えるでしょう。

以上から、バフェットの投資基準に適った銘柄を日本の上場企業から見つけ出すのは、現在のところはアメリカと比べてなかなか大変かもしれないと考えられます。

しかし、チャンスが全くないわけではありません。

理由①については、最近になって、ようやくROEを高める経営が叫ばれ始めたことから、この風潮にも変化が見られていますし、理由②については海外に進出し、大きく成長を続けている企業も日本には少なからずあります。
また、現在は昔に比べて外国株式への投資がかなり容易になりました。バフェット流の投資を実践したい人には、日本にこだわることなく、アメリカで探すことだって難しいことではないでしょう。
先に見てきたバフェットの名言にあったように、ビジネスの分析をしっかり行えば、バフェットが買いたくなるような銘柄にいつか巡り合えるかもしれませんね。

ケチャップで有名なハインツ。2013年にバフェットのバークシャー・ハサウェイと投資ファンド3Gキャピタルとの共同出資で買収された。